梶原靖元 李朝茶碗
確か、次の某焼物の本に掲載されるもの。販売しています。
高麗茶碗特集です。
小十冠者窯跡付近の土。いい土味ですね。
中里重利 絵唐津湯呑
もともとは古唐津の向付の写しです。
竹花正弘 粉引小皿
灰が被って、小さいながら良い景色です。
吉永サダム 白磁湯呑とぐい呑の中間
これ個人的にはとても好きです。潔くて、すっきりしてる。
こういうのでお茶飲むと素敵です。
最近読んだ2冊
「古器に生ける」
とってもいい本です。京都の柳さんのお店で扱っている花器に季節ごとに花が生けられています。その選び方のセンス、パンチ力、最高です。
amazonでも売り切れていて2冊目を渋谷のジュンク堂に買いにいかないといけません。
「村田森 高麗への想い」
美術手帖での現代陶芸へ向けた村上隆氏の文書もとても共感するところがありましたが、
今の同じ世代の現代陶芸を括ってみると村田さんの作品はひときわ圧があります。
それが村上さんの言う作家のガッツや気合いで作品に反映されているのかもしれませんが、
言ってみれば現代陶芸も古美術も贅沢品なわけで、別に食器なんてプラスチックのものでも事足り、酒を呑むのも紙コップでも呑めるわけです。
じゃあなんで高いお金を払って作品を買ってしまうのか、たくさんある理由の中の一つは作品から発せられる力であったり圧だったりします。
これが分かりにくいのですが、例えば音圧ってありますよね。それに似ているのかもしれません。
音圧は耳にはいってきますが、焼物の圧はもっと感覚的だと思います。
作品の持つパワー。置いていて癒されたり、見ていてどこか自分に影響するような作品。
そういったものは価値が付けられるし、何百年も受け継がれ、使い続けられるのではないのかなと。
やはり作家本人の意識レベルの問題で、ほんわかした環境でほんわかした人だとほんわかしたものが出来ます。
それは人間性とはまた違います。
魯山人や加藤唐九郎のような人の作品が今に残っているので。
一般的な対人の人柄に関係なく、陶芸にかける想いのレベルがそのまま作品に反映されているように思います。
陶芸の"圧"の測り方、上げ方、最近よく考えてしまうことですね。
焼物だけでなく、絵でも立体でもそれは共通していて、意識して見てみるとけっこう面白いかもしれません。
dai
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